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2015.03.16 Monday | - | - | -
朔太郎の愛した音楽
四回目の今回は、
朔太郎と音楽の斬っても切れない関係にメスを入れてみましょう。

の青年期のすべての歴史は、全く音楽のために空費したようなものであった。」

「少年時代の僕は、文壇に名を成そうなどという野心を少しも持って居なかった。僕の理想の英雄は、大音楽家大哲学者であった。」

「どんな場合にも人が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にも立たない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

と本人も言っているように少年時代に音楽に目覚め、病的にまで愛した音楽は、
音楽を婦女子の戯言とみなす萩原家の家風に抑圧され、抑圧されればされるほど自由への意識は熾烈に燃え上がっていきます。
その後、東京でマンドリンを習った彼は、前橋に帰り、自宅を開放したりレッスン場を設けるなど、地方に西洋音楽の種子を蒔きながら次第に仲間を集め、やがて当時日本では珍しいマンドリンオーケストラである「ゴンドラ洋楽会」を組織することになります。

それは単に西洋趣味でハイカラ好きが高じた行動という訳ではありませんでした。

「地方に生活して居る人は都会に住んで居る人に比して割の合わないことが沢山ある。
がその中でも一番損なことは好い音楽が聴けないことである。音楽というものは聴けば聴く程好きになり、聴かずに居れば聴かずに居るほど嫌いになるものである。
それ故地方の人はたいてい此の人生で一番幸福なものと謂われる音楽の法悦を知らずに終わってしまうのは情けないことである。」(高崎の音楽会を聴きて)

現在の前橋も変わらず同じ状況にあるのかもしれません。
音楽しかり、ダンス映画を取り巻く情況しかり。

当時のそんな状況に対し、こんなことがあっていいものか!と異を唱え、
実際に愛する音楽への道、音楽の啓蒙普及の道を志したのです。

彼が設立した「ゴンドラ洋楽会」はその後、姿かたちを変え発展を続け、「上毛マンドリン倶楽部」を経て、「高崎マンドリン倶楽部」の会員の数名が創世記の「群馬交響楽団」のメンバーとして活躍していくことになります。
朔太郎は西洋音楽に関しても群馬の地に種子を蒔いた人だったのです。
2006.10.25 Wednesday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)
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2015.03.16 Monday | - | - | -
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コメント
今は、ファッションと音楽は切っても切れないものになっているけど、その部分を朔太郎は、きちんと意識していたのかもしれないなと思いました

それって結構凄いことだと思います
| あらい | 2006/10/23 7:38 PM |
現在は沢山の、音楽が
どこでも聞けるが
かつてはそうではなかった

音楽が女性のものだという認識が
強かったことにはびっくりした。

群馬に音楽があるのは朔太郎のおかげなのか!?



| kiyoko | 2006/10/21 4:59 PM |
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