<< May 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

2015.03.16 Monday | - | - | -
朔太郎からつなぐ連想ゲーム
萩原朔太郎が生まれて120年。
なぜ?一世紀以上前に生まれた詩人のことを、
なぜ?今さら萩原朔太郎のことを思い起こす必要があったのでしょうか?
何を彼から、彼の詩、彼の生涯から僕らが学べるのでしょうか?

実際、僕もいっさい彼のことを、名前以外のことを、
この機会を得るまで殆ど全く知りませんでした。
それでも、今回、彼の本や詩を通し、
彼の生い立ちから彼の日常生活、想い、生涯を見つめて行くうちに、
詩を通して、氏の言葉を通して、
時代は違うにせよ、共感する部分を多く見出していくことになりました。

生涯を通して自分の理想に真っ直ぐで、音楽を愛し
精神の自由を追い求めていた朔太郎はまた、

「されば、我等の思想に於いても七の属和絃が必要であることよ」

と一本調子で平凡な固定概念を嫌い、多様な表現や価値観の必要性を訴えています。

彼が思い描き、夢想した世界を創造できたらどんなに面白いでしょう。
その先にあるのはきっと、想像するに、
大手ショッピングモールやシネコンに代表されるような
画一的で個性の無い商業主義大量生産的な価値観だけでなく、
就職活動だけが学校卒業後の唯一の選択なのではなく、
企業に勤め、自分の時間や人生を会社に預ける他人任せな選択だけでなく、
起業や自営、営農隠遁ヒーローフーテン美楽師アーティスト
という色々な選択肢があること。
様々なライフスタイルを互いに認め合い、支えあえる環境なんだと想うのです。
そこはきっと!?朔太郎のような人間も生きていける、
彼が夢に見た、待ち望んだ環境なのではないでしょうか?

実は最近寂れて廃れたと言われて久しい弁天通りに
若者たちが集まり、お店会社を立ち上げ始めています。
そこに、その若者たちに、他の若者たちが集まり始めています。
何か始まる予感がプンプンする気がするんです。
何でもできちゃう筈なんです。
夢は、寝て見るか?子供時代の遺産って思い返す為だけのものでは無い筈なんです。

萩原朔太郎の生涯を鑑みて考えて、想像してみたら、
そんな風に、浪漫チック?に?イマジネーションが働くのです。

一緒に人生楽しんでみませんか?

やれること、やりたいこと、可能性はたくさんあります。
2006.10.30 Monday | 萩原朔太郎のこと | comments(4) | trackbacks(0)
朔太郎が臨んだ世界、朔太郎が望んだ世界。
萩原朔太郎が生涯を賭けて求めたものは何だったのでしょう。
それは先述のとおり、精神の自由であり、
型にはまった既成概念からの脱却であったのだと想います。

「芸術家の思想といふものは、
常に特殊を超越して、普遍を考え、
今日の問題を考えずに永遠の問題を考えている。
文学者たらんとする子供たちが、
親の常識的教育に対して反抗するのは、
彼らが今日の社会人を理想としないで、
普遍に通ずる永遠人をイデアするからである。」

と本人もいうように、
彼は普遍的かつ、本質的に物事を直感として捉え、
名誉や周囲の評価に囚われず、常識に捕らわれず、
生涯を通じて自分の信じる理想を純粋に詠い続け、
現実と戦い続けました。

しかし、その道は困難を極めます。
理想と現実の狭間で彼は懊悩とし虚無を感じ、
己の無力さを嘆くことになるのです。

時代は昭和に入り、
全体主義的な風潮に巻き込まれそうになりながらも、
それでも彼は理想への情熱を持ち続け、謳い続けるのです。 
自ら求めるものを求めてその生涯を深い内心の争闘に終始したのです。

「僕等の意思することは、
かうしたあまりに現実的にすぎるプラグマチック・ロマン人間の一種属を、
現代の日本文化から抛棄することに存してゐる。
それは不可能の夢かも知れない。
なぜなら僕等自身が、あまりに多く伝統の日本人でありすぎるから。
しかしながら尚、それを理念するだけでも好いのである。」

こうして彼は、「不可能」な夢と対峙し、現実に懊悩としながらも尚、
純粋に理想を追い求め、人生に対して少しも怠惰を許さず、
情熱を燃やし続け、「意思」の追及をし続けたのです。
2006.10.29 Sunday | 萩原朔太郎のこと | comments(0) | trackbacks(0)
晩年の朔太郎
「海を越えて、人々は向こうに「ある」ことを信じてゐる。
島が、が、新世界が。
しかしながら海は、一つの広茫とした眺めにすぎない。
無限に、つかみどころがなく、単調で飽きっぽい景色を見る。
(「海」)

フランス西洋への憧れ孤独理想を謳った朔太郎はその後、
このような虚無的な倦怠の意識に移っていきます。
理想と現実の生活環境の狭間で悩み、倦怠の意識に落ち込んでいくのです。

「今になって、私が漸く始めて知った一つの事は、
 私の過去に受けたすべての文学的教育が、
 根本的に皆ウソであったといふことである。
 明治以来の日本の文壇が、私に教へた一切のことは、
 すべてに於いて『西洋に追随せよ』といふことだった。
 それは私等の遺伝の中から、
すべての古臭い伝統的な観念を叩き出せと命令した。
(中略)
馬鹿正直にも私は、すべてこれ等の指令を忠実に遵奉した。
そしてしかも遵奉することによって文壇から除外され、
日本の文学から縁の遠い世外人にされてしまった。
現実してゐる日本の文学には、どんなにもそんな舶来種イズムは無かった。
すべては遺伝的な国粋精神で固まってゐた。
今になってから、私は漸くそれを知った。
日本の風土気候に合わないものが、
日本に於いて生育し得ないといふことを。
然らばそもそも、なぜに人々はそれを私に教育したのか?(中略)
ああ、しかし!
だが今になってどうなるのだ。
そもそも此処まで追ひ込まれて、私はどっちへ行けば好いのだ。
私の文学的前途は真黒であり、虚妄の廃趾の外に何物もない。
私の悔恨は遅すぎた!」
(『遅すぎた悔恨』)

そして、彼は新古今和歌集や与謝蕪村を再評価し、
日本の伝統的な「美」に価値を見出していきます。

「僕らは西洋的なる知性を経て、日本的なものの探求に帰ってきた。
その巡歴の日は寒くして悲しかった。
なぜなら西洋的なるインテリジェンスは、
大衆的にも、文壇的にも、この国の風土に根づくことがなかったから。」

「西洋的なる知性は、ついにこの国に於いて敗北せねばならないだらうか。
 遂にその最後の日に僕らはあへてそのニヒルを蹂躙しよう。(中略)
今や再度我々は、西洋からの知性によって、日本の失われた青春を回復し、
古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意思しているのだ
現実は虚無である。今の日本には何物もない。
一切の文化は喪失されてる。
だが僕等の知性人は、かかる虚妄の中に抗争しながら、
未来の建設に向かって這いあがってくる。
僕らは絶対者の意思である。
悩みつつ、嘆きつつ、悲しみつつ、そして尚、
最も絶望的に失望しながらしかも尚前進への意思を捨てないのだ。」

「日本的なものへの回帰!
それは僕ら詩人にとって、
よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。」

昭和に入り、西洋への憧れを貴重とした大正の浪漫でモダンな時代は、
大震災を境に終わりを告げ、
マルクシズムが、不安の思想が流入してきたのはちょうどこの時期でした。

朔太郎は、そんな時代背景に挫折を感じ、
ニーチェなどを引用しながら自分の没落の宿命を詠ったのです。
2006.10.28 Saturday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)
朔太郎のモノオモイ
毎度おなじみ今回は、「朔太郎の日常」てな感じで
何を考えて過ごしていたのか?
考えてみましょう。


第一話でも述べたように、
学校を厭い」「林を好み」「怠惰な生徒」であった
彼の幼少の頃から感じていた孤独感はその後も彼を覆い続けます。

郷土!今遠くの郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。
悲しき郷土よ。
人々は私に情(つれ)なくして、
いつも白い眼でにらんでいた。
単に私が無職であり、もしくは変人であるという理由をもって、
あはれな詩人を嘲笑し、私の背後(うしろ)から唾をかけた。
「あすこに白痴(ばか)が歩いていく。」そういって人々が舌を出した。」


そんな現状の、
抑圧され酒におぼれ鬱屈した、
生活からの感情の解放を願い、
そんな想いを詩に託し彼は謳い続けます。

「私の情操の中では、二つの違ったものが衝突して居る。
一つは現実にぶつかって行く烈しい気持で、
一つは現実から逃避しようとする内気な気持だ。」

そして、それは旧来の詩歌観、倫理観、
考え方一般に対して自由を求めた宣戦布告でした。

「すべてこの書の思想を、私は自分の日常生活から発見した。
特に大部分のトピックは、たいてい戸外の漫歩生活
―街路や、森や、電車の中や、百貨店や、珈琲店や、映画館や―
で啓示された。画家が写生帳を持って歩くように、
私もまた、常に手帳を懐中にして、
行く先々の感想を記録して居た。」(『絶望の闘争』自序)

このように、
朔太郎は日々の生活から当時の社会への違和感を直感的に捕らえ、
思索を繰り返し、理想を追い求めて詩作を続けていくのです。

当時日露戦争が始まり、寄稿した雑誌が発売禁止になるなど
言論の自由すら奪われ始めた中でも
彼の思想はあくまで直線的で、表現を手加減しませんでした。

「同志と呼び、親しき友情を感じ得るものは、
今の文壇でただ無産階級の作家であるのみだ。
彼らの仲間だけが、よく私の気質を知り、私の思想を了解して居る。
尤も(もっとも)プロレタリア作家という中には、
社会主義者の一派も居るが、彼らは私にとって例外である。
私が言うのはアナアキストの一派であり、
或いはニヒリストの一派であり、
或いはダダイストのことである。」

『詩はいつも時流の先導に立って、
来るべき世紀の感情をもっとも鋭敏に触知するものである。』

と言い、世の中の潮流に立ち向かっていったのです。
2006.10.27 Friday | 萩原朔太郎のこと | comments(1) | trackbacks(0)
朔太郎とフランス
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん

と朔太郎は謳うように、彼は西洋文化に強い憧れを持っていました。
では、なぜ彼はフランスに想いを寄せたのでしょうか?

朔太郎は、私生活でも西洋風を好み、
パリや南海岸ニースへの渡航を夢見ていました。
それは、もちろん幼少期から好んで聴いた音楽の影響もあるでしょうが、
先に述べたように
それは、その後の彼の人生を覆い続けた時代背景や
家庭環境、「田舎」の生活からの自由を求めた「逃避」であり、
彼が追い求め、憧れ続けたのは、

『ありとあらゆる官能のよろこびとそのなやみと 
 ありとあらゆる近代の思想とその感情と
 およそありとあらゆる「人間的なもの」
のいっさいはこの都会の中心にある』(「都会と田舎」)

とあるように、

「近代的世界のイメージ」

であり、

精神の自由

だったのだと思います。
そして、彼は「孤独感」に閉じこもり、
どこかに「在る」はずの理想を求めて謳い続けるのです。
2006.10.26 Thursday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)
朔太郎の愛した音楽
四回目の今回は、
朔太郎と音楽の斬っても切れない関係にメスを入れてみましょう。

の青年期のすべての歴史は、全く音楽のために空費したようなものであった。」

「少年時代の僕は、文壇に名を成そうなどという野心を少しも持って居なかった。僕の理想の英雄は、大音楽家大哲学者であった。」

「どんな場合にも人が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にも立たない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

と本人も言っているように少年時代に音楽に目覚め、病的にまで愛した音楽は、
音楽を婦女子の戯言とみなす萩原家の家風に抑圧され、抑圧されればされるほど自由への意識は熾烈に燃え上がっていきます。
その後、東京でマンドリンを習った彼は、前橋に帰り、自宅を開放したりレッスン場を設けるなど、地方に西洋音楽の種子を蒔きながら次第に仲間を集め、やがて当時日本では珍しいマンドリンオーケストラである「ゴンドラ洋楽会」を組織することになります。

それは単に西洋趣味でハイカラ好きが高じた行動という訳ではありませんでした。

「地方に生活して居る人は都会に住んで居る人に比して割の合わないことが沢山ある。
がその中でも一番損なことは好い音楽が聴けないことである。音楽というものは聴けば聴く程好きになり、聴かずに居れば聴かずに居るほど嫌いになるものである。
それ故地方の人はたいてい此の人生で一番幸福なものと謂われる音楽の法悦を知らずに終わってしまうのは情けないことである。」(高崎の音楽会を聴きて)

現在の前橋も変わらず同じ状況にあるのかもしれません。
音楽しかり、ダンス映画を取り巻く情況しかり。

当時のそんな状況に対し、こんなことがあっていいものか!と異を唱え、
実際に愛する音楽への道、音楽の啓蒙普及の道を志したのです。

彼が設立した「ゴンドラ洋楽会」はその後、姿かたちを変え発展を続け、「上毛マンドリン倶楽部」を経て、「高崎マンドリン倶楽部」の会員の数名が創世記の「群馬交響楽団」のメンバーとして活躍していくことになります。
朔太郎は西洋音楽に関しても群馬の地に種子を蒔いた人だったのです。
2006.10.25 Wednesday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)
朔太郎と前橋、朔太郎の前橋
毎度お馴染朔太郎コラムでございます。

今回は第三回、朔太郎と前橋の関係を考えてみましょう。


私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群衆の中にいることをもとめる
群衆の中をもとめて歩く

郷土!今遠くの郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。
悲しき郷土よ。
人々は私に情(つれ)なくして、
いつも白い眼でにらんでいた。

都会に憧れ、
西洋趣味な夢見心地で過ごしたボンボンでニート全開な印象のある朔太郎ですが、
実際は40歳を超えるまで前橋で活動し、
地元・群馬の文壇を盛り上げるべく、
様々な活動を主宰し、上毛新聞や様々な文芸誌への寄稿や、
文芸評論を通じて『群馬の文芸復興』を開拓してゆきます。

群馬県で最初の本格的な同人雑誌『侏儒』創刊に当たって
顧問格であった朔太郎は次のような「通信」を寄せています。

「侏儒はたいへん盛んなものに成るらしい。痛快です。
一般に地方文芸雑誌の欠点は真摯と権威をかいて居ることです。
ともすれば道楽雑誌に成りたがることです。
・・・それをふせぐには作物を厳選することと、
社友を物色することが肝心だと思ひます。
あまり不真面目なヂレッタントは排斥する必要があると思ひます。
『侏儒』が『風景』以上の大雑誌として地方雑誌の巨頭とならんことを希望します。」

このような活動を通して朔太郎は、
中央の詩人、歌人達と前橋の詩人たちを結びつけたり、
地元の新聞記者などを巻き込んで「文芸欄」に若い気鋭の作家を登場させるなど後輩の育成に情熱を注ぎました。

萩原恭次郎高橋元吉岡田刀水士伊藤信吉
などは直接・間接的に朔太郎と交わり、
影響し合いその後の群馬の詩風土を培った詩人たちです。

その後、
創刊された月刊誌「狐ノ巣」では、
県内各地に支社を作り、地域ごとに小集を行い、
東京支社や台湾支社を設置するなど群馬県内の文学地図を塗り替え、
この時期の群馬の文芸活動は朔太郎を中心に、
驚くべき速さで活気に満ちた黄金時代を築いていくことになります。
2006.10.24 Tuesday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)
朔太郎の交友関係
第二話目の今回は、
そんな朔太郎の交友関係について探りを入れてみましょう。

そもそも友達の少なく、従兄の栄治が最大の理解者であった朔太郎でしたが、
積極的な文芸誌への投稿などを経て、多くの共感者や詩友を増やしていきました。
中でも、
室生犀星と北原白秋との出会いは彼の人生に大きな影響を与えるほどのものでした。
北原白秋が主宰した『朱欒』によって知り合った朔太郎と犀星は、
長い間、手紙のやり取りを交わしていたのですが、大正三年二月犀星を前橋に迎えます。

「第一印象は悪かったが、交際するにしたがって僕はだんだん室生君の人物が好きになって来た。
彼は決して粗野の荒々しい人物ではなく、非常にデリケートな神経と感受性とを持った人間、即ち天質的の詩人であることが解って来た。」(『詩壇に出た頃』)

「何といってもぢかに興味もあり親密でもある人物といえば、僕には萩原朔太郎と答えることが近道である。」(文学時代・1930年3月刊)

ボサボサ頭で野人的な風貌で田舎者な(朔太郎談)犀星と、
都会的で女性的な雰囲気の朔太郎。
趣味も風貌、価値観も正反対であった二人の関係は、
その後も共に影響しあうライバルであり、親友として続いていきます。

実際、人との交際をあまり好まなかった朔太郎は、
親友と呼べる友は犀星と白秋だったようです。

人間はどういうときででも、
ワガママを言い合い、
言い合うことによってどれだけもお互いの感情を損なうことなく、
かえってシックリと話し合える友達が要るものである。
何となく肩の凝るような話すくない気のする友だち、
また何となくこちらの考えを言いあらはしたくないような遠慮がちな気のする友達、
そうしてそれとは全然反対にこちらの考えをどんどん言っても、
向こうでそれをいちいち確実に受け取ってよく噛み合ってくれる友達、
すっかり安心をして何でもあけすけに言ってしまっても損をしないような友達、
ひとつひとつ向こうに解って貰えるような気のする友達、
そういう友達がへいぜい何となく慕わしい気がするものである。
(室生犀星『日本詩人』1922)


そして、犀星を迎え白秋と交流が始まったこの時期から
朔太郎は短歌から詩歌の世界に舞台を移していくのです。
2006.10.23 Monday | 萩原朔太郎のこと | comments(1) | trackbacks(0)
萩原朔太郎の生い立ちに迫る!!
第一回目の今回は、
なんで?だれ?どんな?ひと?
朔太郎はなんで?詩に目覚めたの?
どんな詩を描いたのでしょう?
ということで、彼の生い立ちを探ってみたいと思います。

今から120年前の1886年(明治19年)、
萩原朔太郎は前橋で生まれました。

前橋でも有名な医院の長男として生まれ、恵まれた生活の中、
家業を継ぐことを期待されますが、
虚弱な体質で内気な性格の彼はイジメラレっ子で学校はサボリがちです。

いつも仲間はずれで、
休み時間には校庭の端っこで息を潜めて隠れていたという
学生時代を過ごした彼は、いつしか短歌に喜びを見出すようになりました。

後年朔太郎は、自選自筆歌集『ソライロノハナ』で

−15歳の時には古今集の恋歌を読んで人知れず涙をこぼすようになった。
その頃従兄栄次氏によっていわゆる新派の歌なるものの作法を教えられた。
鳳晶子の歌に接してから私は全て熱に犯される人になってしまった。
16歳の春、私は初めて歌というものを自分で作ってみた。
この時から若きウエイテルの煩いは作歌によって慰められるようになった。
しかしまた、歌そのものが私の生命のオーソリティであったかもしれない。

と述べているように、
従兄の栄次の影響を強く受け、
様々な文芸誌に投稿するなど短歌に情熱を注ぐようになっていきます。

ところが、
学校そっちのけで短歌に没頭するあまり、
勉強もなおざりになりがちで、
中学卒業後は落第や中退を繰り返し、
医家への道を断念したその後、
定職に就かず生家で日々を憂いながら詩と音楽(マンドリン・オペラ)に熱中し
夢見心地で憂鬱な生活を過ごすことになるのです。

2006.10.22 Sunday | 萩原朔太郎のこと | comments(3) | trackbacks(0)
朔太郎って誰なのさ?
現在弁天通では、
生誕120周年を迎える前橋の詩人『萩原朔太郎』にちなみ、
若者・アーティストと弁天商店のコラボ企画を準備中。

その一環で、
朔太郎ってなぁに?
なぜにまた朔太郎?
てな具合なサイトを準備中です。

萩原朔太郎は今から120年前の明治19年(1886)に生まれ、
『月に吠える』『青猫』などの作品を生んだ郷土・前橋が誇る詩人です。

今回の企画では、
かつて朔太郎が愛し、多くの名詩を詠んだこの土地で、
今を生きる僕たちが、彼の記憶や想いを受け止めて、
どの様に活かして、どう生きていけたらいいんだろう?

まず、その手(足)がかりとして

朔太郎はどんな人で、
どんな友達が居て、
どんな日常の中、
どんなものに憧れて、
どんな風な夢を追い、
どんな想いで前橋を過ごしたんだろう?

という事を考えてみたいと想います。

請うご期待!
2006.10.21 Saturday | 萩原朔太郎のこと | comments(2) | trackbacks(0)